大判例

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大阪高等裁判所 昭和42年(ネ)1139号 判決

控訴人

山中一郎

代理人

堀弘二

被控訴人

向井謙蔵

代理人

佐々木静子

復代理人

加藤充子

主文

原判決をつぎのとおり変更する。

被控訴人は、控訴人に対し、金八七六、〇九七円およびこれに対する昭和四〇年六月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

控訴人のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審を通じこれを五分し、その四を控訴人のその余を被控訴人の負担とする。

この判決は、控訴人勝訴の部分にかぎり、仮に執行することができる。

事実《略》

理由

一昭和三七年一二月二一日午後一〇時ごろ、大阪市住吉区北畠町一番地先路上において、北進中の普通乗用自動車が前方を東から西へ歩行横断中の控訴人と衝突した。そのため控訴人が受傷したこと、および、被控訴人が右自動車を自己のために運行の用に供していたことは、当事者間に争いがない。

二和解契約の成立およびその効力

右事故による損害賠償につき、被控訴人は、すでに和解契約が成立している旨主張するので、まずこの点から検討を進める。

〈証拠〉を総合すると、

(一)  被控訴人は、昭和三八年五月五日、控訴人に対し、本件事故の損害賠償として、家庭費用・医療費・慰藉料等の名目で合計四五万円を支払うことを約し、内金二七万円については、満期を同年五月三〇日ないし一二月三〇日と定めた約束手形一〇通を交付し、もつて「仮示談」としたこと。

(二)  右「仮示談」というのは、一〇通の約束手形がはたして支払われるかどうか不安であつたのでとくに「仮示談」としたこと、すなわち、右手形が一通でも支払われなければ示談を無効としその余の損害も請求できる反面、右各手形を含めて四五万円が全額支払われたときは、本件損害賠償については双方ともなんらの異議申立てないし請求しない旨約したこと。

(三)  そして右四五万円は全額滞りなく支払われたこと。

等の事実を認めることができる。控訴本人は、原審および当審における本人尋問に際し、右の「仮示談」というのは本件損害賠償の終局的な解決がされるまでの暫定的な支払方法を定めたにすぎない趣旨である、と供述するけれども、右はすぐには信用できず、他に右認定を動かすに足りる証拠はない。

そうすると、右認定(三)のように被控訴人が示談金四五万円金額の支払を了している以上、被害者たる控訴人は、右示談の趣旨に従い、当時予想されていた損害については、もはや請求できないものというべきである。けだし、「仮示談」という名称こそ用いられているけれども、その理由は右認定の(三)のとおりであるから、通常の示談すなわち和解契約にほかならず、したがつて、少なくとも示談当時予想した損害については、該示談における被害者の賠償請求権の放棄の効力は、これを動かすことができないと解するのを相当とするからである(最高裁判所昭和四三年三月一五日第二小法廷判決・民集二二巻三号五八七頁参照)。この点につき控訴人は、右示談は後遺症が残らないとの前提に立つて締結されたところ、実際には著しい後遺症が出てきたから、示談の意思表示は、その要素に鎖誤があり無効である、と主張する。ところで、控訴人の右主張に従えば、右示談すなわち和解契約は全部無効と改めて損害賠償額を算定し直さなければならないことになる。しかしこれは、示談当時予想されていた損害についても、示談の効力とくに示談額を左右する結果となり、妥当でない。

もつとも、いわゆる後遺症をはじめとして、示談当時予想しなかつ症た状が現われたり症状が意外に重く著しく悪化したような場合には、示談当時の事情いかんによつては、その予想できなかつた後遺症等の症状による損害についてまでも賠償請求権の放棄がされていると解するのは、当事者の合理的意思に合致するものとはいえない場合がある(前掲最高裁判所判決参照)。かような見地からすると、本件においては何が示談当時予想された損害なのか、またそれを控除したその余の損害についてもはたして賠償請求権の放棄ありと解することができるか、という点が問題になる。

そこで進んで、これらの点につき検討を加えることとする。

三後遺症等による損害についての賠償請求権

〈証拠〉を総合すると、

(一)  冒頭で説示した自動車事故により、控訴人は、両下腿部骨折(粉砕骨折)、右大腿部打撲症、腹部打撲症、右前額部挫創等の傷害を受け、昭和三七年一二月二二日から昭和三八年四月三〇日まで大阪南病院で入院加療し、その後はギブスで足を固定したまま堺市民病院に通院して治療を続け、歩行練習とマッサージによつてうまくいけばなおるとの医師の言を信じそのようにしていたところ、事故後約二年半を経過しても症状はいつこうに好転しなかつたので昭和四〇年四月一六日他の病院でみてもらつたところ両下腿粉砕骨折による治療遷延および左足関節硬直との診断を受け、ついではじめの南大阪病院でもみてもらつたが同様の診断結果で症状を固定しているということであつたこと、その当時の控訴人の症状は左足は極度の運動制限を伴い走ることも正坐することも重い物を持つこともできずこれ以上の回復は望めないこと。

(二)  前記示談は南大阪病院退院の直後に成立したものであるが、当時はまだギブスがとれておらず治療になおかなりの期間を要すると予想されていたが、控訴人・被控訴人ともやがてはなおるものと期待し、示談に際しては後遣症等のことは話題にも上らなかつたこと、したがつて、右(一)のように左足の運動が著しく制限されたまま症状が固定することなどまつたく考えずに示談をしたこと。

(三)  右示談については、傷がまだなおつていない時期であつたので、控訴人側では周囲の反対もあつたけれども、控訴人は、一家の生活に不安を感じてきたので退院を機会に示談をするに至つたこと。

等の事実を認めることができる。〈証拠〉中には右認定に抵触する部分があるけれども、これは信用できず、ほかには右認定を左右するに足りる証拠はない。

右認定の示談成立の事情に徳して考えると、まず、控訴人は示談後もなお通院加療に要する相当期間中の収入減その他の損害を予想していたものと推認され、したがつて、その分の損害賠償請求権は右示談によつて放棄したものということができる。しかし、その余の損害すなわち左足関節硬直・症状固定による損害についてまで賠償請求権を放棄したものと解するのは相当でない。被控訴人は、両下腿粉砕骨折という傷害は治療困難で後遺症の残存は示談当時から容易に推測できたと主張する。たしかに示談当時、本件受傷の部位程度に徴しある程度の肢体の不自由を後遺症としてのこすことは予測されたものと認められるが、本件のように正坐不能というが如き重い後遺症をのこすことは、当時両当事者とも予測していたものと認めるに足りる証拠はない。また、医学的に素人であるうえ右認定の(三)のような心境にある控訴人に対しかようなことまで推測すべきことを要求するのは酷である。

ところで、控訴人の収入減のうちいつまでの分が賠償請求権を放棄した損害にあたるかについては、その時点を的確に把握できる証拠がほかにない以上、左関節硬直・症状固定という診断の出た昭和四〇年四、五日ごろまでの分とするほかはない。したがつて、それ以後の収入減は得べかりし利益の喪失として、右示談の存在にもかかわらずその賠償を被控訴人に請求できるわけである。

そこで昭和四〇年六月以降の収入減について考えるに、〈証拠〉を総合すると控訴人は本件事故当時熟練(職長代理)の鋳物工として一か月五五、〇〇〇円の収入を得ていたところ、前記認定のように左足の運動が著しく制限され重い物を持つことができなくなつた結果、作業能力が低下し、そのため少なくとも二五パーセントの収入減を生じたことが認められる労働基準監督局長通牒による(労働能力喪失率に従えば二七パーセントであることも、右認定を裏づけることができる。)。成立に争いのない乙第一〇号証には右認定に抵触する記載があるけれども、これは採用できないし、ほかには右認定を動かすべき証拠はない。この収入減を金額であらわすと年間一六五、〇〇〇円となる。また、〈証拠〉によると、控訴人は大正一五年一〇月生の男子であることが認められるから、昭和四〇年六月当時満三八才であり、統計上なお二一年は就労可能ということができる。そして、右認定の年間収入減の二一か年分につき年利五分としてホフマン式計算により中間利息を控除すると、昭和四〇年六月の現在額は一、六九〇、二四三円となる。

この金額が本件事故による控訴人の得べかりし利益の喪失額であるが、被控訴人は過失相殺を主張しているので考えるに、〈証拠〉を総合すると、被控訴人には、対向車の前照燈に目がくらみ前方を確認できないのに時速三五キロメートルで進行し、控訴人を発見して直ちに急制動をかけたが及ばずこれに衝突したという徐行義務および前方注視義務違反の過失が存すること、一方控訴人は、酒に酔つて信号に従わず横断歩道があるのにそうでないところを横断して被控訴人の自動車に衝突したのであり、その過失は事故原因として相当大きく作用していること、等の事実を認めることができる。〈証拠〉中には右認定に抵触する部分があるけれども、これらはいずれも信用できない。右認定事実によれば、控訴人の過失は被控訴人の過失を上回るものがあり、両者の過失割合は控訴人の三に対し被控訴人を二とするのが相当である。

そうすると、被控訴人に対し賠償を請求できる逸失利益額は、右一、六九〇、二四三円の五分の二すなわち六七六、〇九七円となる。

つぎに控訴人の慰藉料につき考えるに、以上に説示してきた本件の一切の事情とくに被控訴人側にもかなりの過失のあることを考慮して、その額を二〇万円と認めるのが相当である。

したがつて、控訴人は被控訴人に対し、右逸失利益の賠償額と慰藉料額との合計八七六、〇九七円およびこれに対する損害発生後の昭和四〇年六月一日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を請求できることになる。

四むすび

以上のとおりであるから、控訴人の本訴請求は、右八七六、〇九七円およびこれに対する遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容し、その余は失当として棄却すべきである。

よつて、右請求を全部棄却した原判決は一部不当であるから、民事訴訟法第三八六条、第九六条、第九二条および第一九六条に従い、主文のとおり判決する。

(藪田康雄 賀集唱 潮久郎)

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